貝尾集落 都井 生家 45

津山事件とは、津山三十人殺しとして知られる、1938年5月21日に岡山県の山間の集落で起きた大量殺人事件です。犯人の都井睦雄は猟銃や日本刀、小刀などで武装し、わずか2時間足らずで28名を殺害しました。 都井睦雄の犯行動機は深い怨恨によるもので、かつて関係があり他村へと嫁いだ女性が里帰りしたタイミングを狙って、かなり以前から入念な準備を行った上で、計画的に犯行に及んでいます。 犯行時間は集落が寝静 … この貝尾集落で言えば都井睦雄は結核であり、それなりに裕福であり、ビジュアルも悪くない。ただ、当時の集落の皆が農作業などに従事していた手前、彼らは都井睦雄を良く思っていなかったんじゃないですかね。 DMM.com証券 貝尾集落内では一切写真撮影などはしておりません。それは一応のポリシーでもありますので文章でだけ。 これはあらかじめ予測の付いていた事ではありますが、集落は人里はなれた山深い場所にあり陰鬱な印象を与えるなどというわけではありません。 津山30 全国裏探訪取材班は、日本全国津々“裏”々の日の当たらないDEEPスポットをうがった見方でリポートしています。 ぼちぼちコンテンツを増やしていきます。言葉遣い、態度、基本気ままなのでご了承ください。, Posted on2020年10月28日2020年10月28日Author裏 探訪, 全国裏探訪取材班は、岡山県津山市にある「貝尾集落」に来ている。ここはあの八墓村で有名な「津山事件」の舞台だ。前回まで全11件の襲撃の様子をつらつらとかレポしてきてんですけど、内容があまりに猟奇的すぎてアメリカかなんかの映画の内容を文字に起こしているような感覚になった。, しかし、ひと晩のうちに30人以上殺害されたのは紛れもない事実だ。張本人は都井睦雄だったとしても、誰がここまで彼を追い込んだのだろうか。, 取材班が考えるにそれは、日本人の特性ではないだろうか。日本人は常に一般のいわゆる常識から外れた者、例えば能力が有る者、無い者。金を持つ者、もたない者。良いも悪いも平均から外れた者を平均の人間らが寄って集って攻撃するという性質があるのではないだろうか。, 日本のことわざ?で言う所の出る杭は打たれる、とか言う奴ですかね。後は長いものには巻かれろ。とか言うことわざもあったりしますよね。, この貝尾集落で言えば都井睦雄は結核であり、それなりに裕福であり、ビジュアルも悪くない。ただ、当時の集落の皆が農作業などに従事していた手前、彼らは都井睦雄を良く思っていなかったんじゃないですかね。, ほら、例えば最近で言うとこの中国の新型肺炎のコロナウイルスとかで発生したコロナ禍とか何とかで、最近の日本人は密でもない場所でマスクをしていたり、マスクをしながら炎天下の中自転車に乗っていたり‥まさに非科学的な日本人のコロナ脳に犯された集団心理炸裂ってとこですかね。, そんな、日本人の特性は今に始まったものではなくて、都井睦雄が集落で陰湿ないじめを受けていた時も、非科学的ないじめがまかり通ていたのは冒頭述べたとおりだ。, まぁこう言う事なんですよ二ホンって、日本人は100年前も今も基本的な構造は変わらないんですよね。その事実はこの津山事件を見れば非常によくわかる。, ちなみにこちらがその墓場。周囲を建物や木々に隠され墓が立ち並んで居るのがお分かりだろうか。この中には例の津山事件で殺害された人の墓も多くあるという。, 早速見て行きましょうかね。一番古い手前の墓を見ていただきたい。手前の墓には昭和十三年五月二十一日と書かれているのがお分かりいただけるだろうか。事件当日だ。でも、これだけならただの偶然と言われるかも知れない。, それでは次回、偶然と言われないようにしっかり他の墓も見て行きましょうかね。今日は眠いのでここまでにしておこう。時計の針を見てみると・・午前1時40分殺害が決行された時間だ・・取材班は集団でいじめをしていないので大丈夫と思うがw, #津山市 #これはやばい #これはひどい #頭おかしい #マニアック #廃墟 #神社仏閣 #廃墟 #歴史 #やりすぎ #空撮, Categories33岡山県, 6中国Tagsこれはひどい, これはやばい, やりすぎ, マニアック, 廃墟, 歴史, 津山市, 神社仏閣, 空撮, 頭おかしい, 写真・記事の転載は禁止しております。盗用は「著作権法違反」の犯罪です。他人のふんどしで相撲を取るような輩には厳正に対処させていただきます。, 投げ銭をお願いします。「投げ銭?いい大人が恥ずかしくないのか?」と老害の方が言われるのかもしれませんが、私どもは気にしません。皆様から頂いた支援で、今後とも質の高い取材の足しにさせていただきます。どうぞよろしくお願いします。, 「タレコミ」、ネタの提供、取材要請も受け付けています。クレーム・批判はシカトしますのでご了承ください(笑), 当サイトは、日本全国の裏スポットを取材班各個人が探訪しその記録とその内心を綴っています。記事は万全を期しておりますが、個人取材のため完全に内容が正しいとも限りません。そこは読者がご自身で記事が正しいか否かを確認の上、お考え下さい。当記事の表現は憲法で保障されている表現の自由で免責とさせていただいております。, 【二ホン人の闇】三十人殺しの「津山事件」の「貝尾集落」を訪ねる【は今も続く】(6), 【二ホン人の闇】三十人殺しの「津山事件」の「貝尾集落」を訪ねる【は今も続く】(8). 戸主は都井)は祖母の生まれ故郷の貝尾集落に引っ越した。都井家にはある程度の所得と資産があり、畑作とあわせて比較的楽に生活を送ることができた。 都井は尋常高等小学校を卒業直後に肋膜炎を患って医師から農作業を禁止され、無為な生活を送っていた。病状はすぐに快方に向かい、� 津山事件(つやまじけん)または津山三十人殺し(つやまさんじゅうにんごろし)は、1938年(昭和13年)5月21日未明に岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現・津山市加茂町行重)の貝尾・坂元両集落で発生した大量殺人事件。一般には津山事件と呼ばれ、犯人の姓名を取って都井睦雄事件ともいう。犯行が行われた2時間足らずの間に28名が即死し、5名が重軽傷を負った(そのうち12時間後までに2名が死亡)。なお、犯行後に犯人が自殺したため、被疑者死亡で不起訴となった。, 横溝正史の小説『八つ墓村』、および西村望の小説『丑三つの村』のモチーフになった事件である。, 犯人の都井 睦雄(とい むつお)は1917年(大正6年)3月5日、岡山県苫田郡加茂村大字倉見(現・津山市)に生まれた。2歳で父を、3歳で母を、ともに肺結核で亡くしたため[1]、祖母が後見人となり、その直後一家は加茂の中心部である塔中へ引っ越した。, さらに、都井が6歳のときに一家(都井以外に祖母と姉。戸主は都井)は祖母の生まれ故郷の貝尾集落に引っ越した。都井家にはある程度の所得と資産があり、畑作とあわせて比較的楽に生活を送ることができた。, 都井は尋常高等小学校を卒業直後に肋膜炎を患って医師から農作業を禁止され、無為な生活を送っていた。病状はすぐに快方に向かい、実業補習学校に入学したが、姉が結婚したころから徐々に学業を嫌い、家に引きこもるようになっていき、同年代の人間と関わることはなかった。, 1937年(昭和12年)、都井は徴兵検査を受け、結核を理由に丙種合格(入営不適、民兵としてのみ徴用可能。実質上の不合格)とされた。そのころから都井は、それまで関係を持った女性たちに、都井の丙種合格や結核を理由として関係を拒絶されるようになった[2]。そして、心ない風評に都井は不満を募らせていった。, 同年、狩猟免許を取得して津山で2連発散弾銃を購入した。翌1938年(昭和13年)にはそれを神戸で下取りに出し、猛獣用の12番口径5連発のブローニング製散弾銃であるブローニング・オート5を購入した。毎日山にこもって射撃練習に励むようになり、毎夜猟銃を手に村を徘徊して近隣の人間に不安を与えるに至った。都井はこのころから犯行準備のため、自宅や土地を担保に借金をしていた。, しかし、都井が祖母の病気治療目的で味噌汁に薬を入れているところを祖母本人に目撃され、そのことで「孫に毒殺される」と大騒ぎして警察に訴えられたために家宅捜索を受けた。猟銃一式のほか、日本刀・短刀・匕首などを押収され、猟銃所持許可も取り消された(この薬に関し、祖母から話を聞いた近所の寺井元一が後日都井に問いただしている。都井は、「自分が常用しているわかもとを祖母にも飲ませようとした」と寺井元一に語っているが、みそ汁に混入した薬が本当にわかもとだったのかは不明)。, 都井はこの一件により凶器類をすべて失ったが、知人を通じて猟銃や弾薬を購入したり、刀剣愛好家から日本刀を譲り受け、ふたたび凶器類を揃えた。, 以前懇意にしていたが都井の元から去って他の村へ嫁いだ女性が、村に里帰りしてきた1938年(昭和13年)5月21日の未明、犯行が行われた。, 都井は事件の数日前から、実姉をはじめ数名に宛てた長文の遺書を書いていた。さらに自ら自転車で隣町の加茂町駐在所まで走り、難を逃れた住民が救援を求めるのに必要な時間をあらかじめ把握しておくなど(当時、西加茂村駐在所の巡査は出征で欠員中だった)、犯行に向け周到な準備を進めていたことがのちの捜査で判明している。自分の姉に対して遺した手紙は、「姉さん、早く病気を治してください。この世で強く生きてください」という内容である。, 1938年(昭和13年)5月20日午後5時ごろ、都井は電柱によじ登り送電線を切断、貝尾集落のみを全面的に停電させる。しかし村人たちは停電を特に不審に思わず、これについて電気の管理会社への通報や、原因の特定などを試みることはなかった。, 翌5月21日1時40分ごろ、都井は行動を開始する。詰襟の学生服に軍用のゲートルと地下足袋を身に着け、頭にははちまきを締め、小型懐中電灯を両側に1本ずつ結わえつけた。首からは自転車用のナショナルランプ[3]を提げ、腰には日本刀一振りと匕首を二振り、手には改造した9連発ブローニング猟銃を持った。, 近隣の住人を約1時間半のうちに、次々と改造猟銃と日本刀で殺害していった。被害者たちの証言によると、この一連の犯行は極めて計画的かつ冷静に行われたとされている。最終的に死者30名(即死28名、重傷のち死亡2名)、重軽傷者3名の被害者が出た。死者のうち5名が16歳未満(最年少は5歳)である。計11軒の家が犯行に遭い、そのうち3軒が一家全員が殺害され、4軒の家は生存者が1名だけであった。, 犯行に遭った家の生存者たちは、激しい銃声と都井の怒鳴り声を聞き、すぐに身を隠すなどして助かった。また、2名は襲撃の夜に村に不在だったため難を逃れた。ある宅では、その家の主人が「決して動かんから助けてくれ」と必死に哀願したところ都井は「それほどまでに命が惜しいんか。よし、助けてやるけん」と言い残しその場を立ち去っている。, 約1時間半に及ぶ犯行後、都井は遺書用の鉛筆と紙を借りるため、隣の集落の一軒家を訪れた。家人は都井の異様な風体に驚いて動けない状態だったが、その家の子が以前から都井の話を聞きに来ていて顔見知りであったため、その子に頼み、鉛筆と紙を譲り受けた。都井は去り際にこの子へ「うんと勉強して偉くなれよ」と声をかけている。, その後、3.5km離れた仙の城と呼ばれていた荒坂峠の山頂にて[4]、追加の遺書を書いたあと、猟銃で自殺した。都井の遺体は翌朝になって山狩りで発見された。猟銃で自らの心臓を撃ち抜いており、即死したとみられている。, 思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺元ゆり子が貝尾に来たから、又西山良子も来たからである、しかし寺元ゆり子は逃がした、又寺元倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸本順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。, 都井は遺書の中で、この日に犯行を起こす決意をしたのは、以前都井と関係があったにもかかわらず他家に嫁いだ女性が、貝尾に里帰りしていたからとしている。しかし、この女性は実家に都井が踏み込んで来たときに逃げ出して助かり、逆にこの家に逃げ込んだ隣家の家人が射殺される場面もあった。, 事件はラジオや新聞などのマスコミにより報道され、『少年倶楽部』もこの事件を特集した。, この事件が貝尾集落に与えた影響は大きく、前述のように、一家全滅したところもあれば一家の大部分を失ったところもあり、集落の大部分が農業で生計を立てているため、かなり生活が苦しくなったとされている。さらに、都井の親族であり、都井から襲撃を受けることのなかった一家が、企みを前々から知っていて隠していたのではないかと疑われ、村八分に近い扱いを受けたともいわれている。, 事件後、犯人の都井が警察による取り調べを受ける前に自殺し、さらに多くの被害者が亡くなったため、生存者による証言しか残っていない。しかし、生存者のほとんどが亡くなった被害者の誰かしらと親戚関係にある状態で、すべての罪を都井にかぶせるようなものが多いという意見もある。さらに、都井が死亡した以上、たとえば都井と関係があったと噂される女性でも本人が否定してしまえば確認する方法はなく、事実関係が不明な部分も多く残った。1975年(昭和50年)に刊行された『加茂町史』では、本事件について「都井睦雄事件も発生した」と記されるのみである。, 事件現場である貝尾集落は、周辺集落のなかでも一番山際にあたる部分にある。2015年春、倉見に廃屋となって残っていた都井の生家が取り壊された。, 貝尾地区の人口は事件当時23世帯111人であったが、2010年の平成22年国勢調査によると13世帯37人となっており、うち単身の世帯が4あるなど限界集落化が進んでいる。直接被害者を出さなかった複数の世帯が事件後に貝尾を離れているほか、過疎化が進行しており、廃墟となっている家屋もある。事件当時から貝尾に居住している者はすでに一人もいないという。, 事件発生から70年後にあたる2008年(平成20年)、『週刊朝日』5月13日号にて津山事件関係者による証言記事(記者:小宮山明希)が掲載された。その記事内で匿名でのインタビューに応じた90代の老人によると、都井は村が停電になった時によく修理を頼まれていた。また、事件が発生したその日のうちに「昭和の鬼熊事件」と題した号外が出たと述べている[5]。当時村に残っていたとされている夜這いの風習については否定している[5]。, なお、この証言については司法省刑事局による「津山事件報告書」[6]と食い違う部分がある。, 2008年7月21日放送のテレビ朝日『スーパーモーニング』内のコーナー「時空ミステリー」で、「八つ墓村70年目の真実」として事件の特集が組まれている。取材を受けた村民は、夜這いの風習が当時はあったと証言、容疑者も数々の女性と性的関係を持っていたと証言した。, 容疑者は当時幼なじみと婚約していたが、肺結核に感染した容疑者との結婚を周囲に反対され、2人は破局、女性は別の男性と結婚した。容疑者はそのことから犯行に及んだ可能性があり、肺結核に対する自身への悪口を言った村人を順に殺害したといわれている。しかし、容疑者は幼なじみの女性をわざと手にかけなかったと当時は噂された。その女性は事件後に貝尾を離れ、他の集落に転居した。2014年の時点で生存が確認されており、2020年現在は生誕100年を超えているが、被害者の一人であるにもかかわらず周囲からは「被害を作った張本人」と見なされ、70年経っても地域社会から孤立していた。, 座標: 北緯35度9分21.0秒 東経134度2分17.0秒 / 北緯35.155833度 東経134.038056度 / 35.155833; 134.038056, 愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。, 【前編】オーケンに全部聞いた! 4年ぶりでもブレない筋少ワールド『THE SHOW MUST GO ON』アルバム発売記念インタビュー, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=津山事件&oldid=79394122, この項目では、1938年の殺人事件について説明しています。2004年の殺人事件については「, 3軒目はC宅に侵入。Cと妻を射殺。さらに農業の手伝いにきていた親戚も射殺。主人の母親で、「頼むけん、こらえてつかあさい」と足元にひざまづいて命乞いをする老婆に都井は「お前んとこにはもともと恨みも持っとらんじゃったが、(都井が恨みを持っている家から)嫁をもろうたから殺さにゃいけんようになった」と言って猟銃を発砲した(至近距離で肋骨への被弾が幸いし、奇跡的に一命を取り留めた)。, 5軒目はD家の四女が逃げ込んだE宅。Eは床下に娘を匿ったが、Eの父親が射殺された。D家の四女、E家の四女が負傷。, 7軒目はG宅に侵入。Gの妻と養蚕手伝いで泊り込んでいた2人の娘を射殺。この時、Gは、返り血を浴びた都井に猟銃を突きつけられたが、逃げることもせず茫然と座っていたところ、「お前はわしの悪口を言わんじゃったから、堪えてやるけんの」と言われて見逃されたという。, 8軒目はH宅に侵入。Hの妹と母親を射殺。逃げ切ったHは隣町の駐在所に事件の第一報を報告した。, 『津山事件報告書』から都井の遺書や生存者の証言などが引用されている。また、都井が子供向けに書いたという小説「雄図海王丸」も収録されている。従来、本事件に関する基本的文献とみなされてきたが、下記の『津山事件の真実』による検証で、この本の「雄図海王丸」や阿部定関係など多くの部分が、著者による創作あるいは捏造であるらしいことが判明した。著者自身が、『津山事件の真実』で取材を受けた際に、「よく調べずに書き良心がとがめている」「現地には一度行っただけ」と述べた。松本清張の書いた「姉はすでに死亡」を鵜呑みにしたのか、真偽を検証しようがない都井家の家庭での他愛ないエピソードが多く、姉の回想に基づくことを示唆するくだりもある。直接都井と関係のない歴史、風俗資料の引用が多い。反面、都井の両親の死亡や貝尾への引っ越しなど都井の人生に大きな影響を与えたくだりは簡単な事実経過のみで、両親の死亡のくだりには、「山村の食生活」に関わる引用が続く。, 津山事件についての新事実の他、上記『津山三十人殺し』の内容に関する検証がされている。筑波昭へのインタビューや、『津山事件報告書』の閲覧方法も記載されている。付録付きには、『津山事件報告書』の大半が収録されている。, 10年以上現地を取材してきた著者による、新事実を含めた労作。犯行の契機となった「以前懇意にしていたものの、その後都井の元から去り、他の村へ嫁いだ女性」へのインタビューが掲載されている。, 舞台となる集落の名称は変更されているが、津山事件に詳しく言及される下巻の内容は筑波昭の著作と重複する部分が多い。, 作中に津山事件を元にした「××村三十三人殺し」という都市伝説が登場する。主人公が物語に関わる重大なキーとなっている。, 明治時代の北海道が舞台のサバイバル漫画。「三十三人殺しの津山」と呼ばれる人物が登場する。. All Rights Reserved. しだれ桜と山桜が美しい岡山県貝尾集落の春。 "廃村"と"田舎"の境界に位置する"村"のことを、僕は勝手に"隠れ里"と呼んでいる。時には時代に取り残されて、時には過疎化が進んで、また時にはある"因縁"や"事件"ゆえに行き着いた果てに、"隠れ里"は存在している。 僕はそんな"隠れ里"を訪ねる 1938年、岡山県の山間にある小さな集落で起こった大量殺人事件「津山事件」はその前代未聞な猟奇性から現在でも語り継がれています。この記事では津山事件の犯人である都井睦雄について詳しく解説し、事件のその後の様子についても詳細にまとめています。, 津山事件とは、津山三十人殺しとして知られる、1938年5月21日に岡山県の山間の集落で起きた大量殺人事件です。犯人の都井睦雄は猟銃や日本刀、小刀などで武装し、わずか2時間足らずで28名を殺害しました。, 都井睦雄の犯行動機は深い怨恨によるもので、かつて関係があり他村へと嫁いだ女性が里帰りしたタイミングを狙って、かなり以前から入念な準備を行った上で、計画的に犯行に及んでいます。, 犯行時間は集落が寝静まった深夜1時頃とされており、不意をつかれた住民たちは為す術もなく殺害されていき、一家全滅、一家の大半を失う家族複数出ました。都井睦雄はその後、遺書を残し夜明け前に自殺しています。, 津山事件は、犯人都井睦雄を含み多くの当事者が死亡しており、生存者の少なさからその真相は現在まで謎に包まれており、それが津山事件が戦前最大のミステリーの一つとされる大きな要因となっています。, 津山事件はその悲惨さと衝撃的な内容から80年以上が経った現在まで、人々の興味の対象となっており津山事件に着想を得た小説や映画が存在する他、サブカル系の雑誌やテレビなどでも度々特集されています。, 1938年、岡山県苫田郡の山間にあった、貝尾集落で昭和最大とも言われる大量殺人事件が発生しました。この事件は津山事件と呼ばれ、現在でも戦前最大のミステリーとして人々の興味を集めています。, 津山事件では、わずか2時間足らずの間に28人が死亡、5人が重軽傷を負い、事件の12時間後までにさらに2人が死亡しており、その被害者の人数から「津山三十人殺し」とも呼ばれています。, 津山事件の犯人は集落に住む、当時21歳だった青年都井睦雄という男でした。都井睦雄は別の集落で生まれましたが、2歳で父を亡くし、3歳で母を共に肺結核で亡くしており、その後祖母に育てられています。, 都井睦雄は6歳の頃に祖母の故郷であった貝尾集落に祖母と姉と共に移住してきています。都井睦雄の一家はある程度の財産を持っていたようで、暮らしは比較的楽なものであったようです。, 都井睦雄は高等小学校(現在の中学校にあたる)を卒業後、肋膜炎(現在の胸膜炎)と診断され、医師の指示で農作業を禁止されます。すぐに介抱に向かったようですが、この頃から劣等感を感じるようになっています。, その後、都井睦雄は実業補習学校へと進みますが、しばらくすると学業を嫌うようになり、家に引きこもって無為な日々を過ごしています。この頃に同世代の人間との関わりもほとんど無くなっていったようです。, このほかにも様々な要因があって、次第に都井睦雄は集落内で侮辱的な扱いを受けるようになります。多くの村民たちから風評被害を受ける事となり、都井睦雄は次第に恨みを募らせていったようです。, 現在では、都井睦雄が長年にわたって募らせた恨みが、津山事件の動機であると結論づけられています。都井睦雄が残した遺書に特定の人物への恨みが書かれている事に加えて、生存者の証言からも間違い無いようです。, この恨みの要因となったのは、都井睦雄本人の集落での行動であると考えられています。ただし、現在であれば大問題である行動も当時の社会では特段珍しい事ではないというのは頭に入れておく必要があります。, 都井睦雄は、村にあった夜這いの風習によって集落の多くの女性と関係を持っていたとされ、その女性達からも次第に差別的な扱いを受けるようになり、その後、次第に恨みを募らせていったと考えられています。, 都井睦雄が集落内で差別的な扱いを受けるようになった原因は、都井睦雄の父母が肺結核で亡くなっていた事と、本人も肺結核を理由に徴兵検査を事実上の不合格となった事だとされています。, 当時の日本社会では、徴兵制で兵隊に行って初めて一人前の男であると見られる雰囲気があり、さらに肺結核は不治の病であり感染力も強い病気という認識であった為、集落全体から距離を置かれたと考えられます。, これは、現代の感覚では中々理解できませんが、当時の日本社会、増してや山村地帯では肺結核患者への差別意識が根強く存在しており、この様な扱いを受けたのもそこまで異常な事態とは言えませんでした。, それでも、都井睦雄の恨みは凄まじく募っていき、やがて犯行に至っています。現在この事件を振り返って考えてみるときに、津山事件における都井睦雄の行動はとても計画的で無駄がない事に気がつきます。, こういった事を考え合わせると、都井睦雄という人物はとても知能レベルが高く、深く物事を捉え理解する事ができる人物であったと推察されます。, その事が逆に災いし、深く物事を理解してしまうが為に、集落での侮蔑的な差別行為に怒りを募らせる結果となり、前代未聞の凶行へと走った根本的な要因だと言えるのではないでしょうか?, ここからは津山事件が起きた当日の流れを詳しく見ていきたいと思います。都井睦雄の行動はとても合理的で計算されたものであり、高い知能指数が感じられます。, この計画性の高さがたった一人で、わずか2時間足らずの時間で30人以上を殺傷できた最大の理由だと考えられます。, また、都井睦雄は犯行の何年も前から猟銃免許を取り訓練を積んだり、武器を揃えたりと、準備を整えていた節がありますが、ここでは犯行の直前に行った直接的な準備に焦点を当てます。, 津山事件前日の5月20日、都井睦雄は犯行の下準備を入念に行っています。まず午後4時頃に自転車で、襲撃を予定していた家を入念に下見しています。, その後の午後5時頃、電柱に上って送電線を切断して集落全体の照明がつかない状態にしています。初夏とはいえ山間部、この時間でも電気がなければ既にかなりの暗さであったと考えれます。, これ以前にも集落では風やそのほかの原因で度々停電が起こっていたので、特段不審に思う事もなく電気管理会社への連絡や原因の特定を試みる村民は一人もいませんでした。, 日付が変わった5月21日の深夜1時頃、都井睦雄は計画を実行に移します。屋根裏部屋に上がった都井睦雄は、事業補習学校時代に軍事訓練用に購入させられた黒詰襟の学生服に着替えます。, その後両足に軍事訓練用のゲートルを固く巻き、その上から地下足袋を履きます。2本の小型の懐中電灯を手ぬぐいをハチマキ状にして頭に巻き、首からは自転車用のランプをかけて、別の紐で体に固定する様にします。, 日本刀一振り、匕首(鍔の無い短刀)を2本を紐で左腰に括った上から革のベルトでしっかりと固定し、手には12口径の9連発に自分で改造した猟銃を持ち、ポケットと鞄に合計200発の弾丸を用意しています。, 都井睦雄の犯行時の異様な格好は、現在でも津山事件のイメージともなっており、事件の猟奇性をさらに掻き立てます。用意を終えると都井睦雄は屋根裏部屋から下の階に降り祖母の首を斧で切断して殺害しています。, その都井睦雄は犯行後に記した遺書の中で、祖母には済まない事をしたが、残される不憫を思うと殺すしかなかったといった趣旨の事を書いています。また、既に嫁いでいた姉に対しても謝罪の言葉を綴っています。, 家を出た都井睦雄は11軒の家を回って次々と一家を惨殺していきます。さながらスプラッター映画の犯人の様に鬼と化した都井は淡々と犯行を重ねた様です。, 最初に標的とされたのは都井と関係があったという北隣の家の未亡人で、刀で首と胸、口の中を刺し貫かれて殺害されています。半年前に関係を拒まれ、それを集落中に言いふらされた事で強い恨みがあったとされます。, その後も、都井の家は集落の中心あたりにあり、そこから村中を次々に回って、刀や猟銃を使用して次々と住民を殺害し、わずか1時間半程度の間に28人を即死させたと言われます。, 都井睦雄はターゲットを明確に決めていた様子があり、炬燵に堂々と座っていた老人に対して「お前はわしの悪口を言わんじゃったから、堪えてやるけんの」と発言して見逃したとされています。, その後、その老人の息子も必死に命乞いをしたところ「それほどまでに命が惜しいんか。よし、助けてやるけん」と発言して見逃されたとの証言もある様です。, 家で祖母を殺害してからわずか1時間半ほどの午前2時半頃には、襲撃を終えて都井睦雄は集落から出ています。この短時間の間にこれだけの事を終えている事からも津山事件が綿密に計画されたものだとわかります。, 都井睦雄はその後、午前3時頃に隣接する楢井集落に立ち寄っています。「今晩は」と呼びながら、家主が寝ている一軒の家に上がり込みます。家主は都井を強盗だと思い怯えていたそうです。, それを見て都井は「怯えなさんな、急ぐんじゃ、紙と鉛筆をもらいたい、警察がこの下まで自動車でわしを追うて来ておる」と発言したそうです。都井はこの家の主人の孫と顔見知りでした。, 当時小学5年だった孫は、都井の作成した紙芝居の常連であり、顔見知りであったそうです。怯えて動けない主人に変わって都井はこの孫に鉛筆と紙を持ってくる様に言って受け取っています。, その後、最後に立ち寄って家から3.5キロほど山の中に入った場所で都井睦雄の自殺遺体が発見されます。猟銃左胸に当てて、両手で銃身をしっかりと固定して足で引き金を弾いたと推定されています。, 死亡推定時刻は午前5時頃とされました。この時都井睦雄は楢井集落で受け取った紙と鉛筆を使って遺書を認めています。その後、都井の自宅でも2通の遺書が発見されています。, ここまで見てきた様に、津山事件の真相は単なる無差別大量殺人事件ではありません。長年の怨恨によって引き起こされた陰惨な復讐事件だと言えます。, 怨恨につながった村での差別的な扱いは、当時の日本の村社会の暗部を示していますが、それがこれほどの大量殺人につながったケースは記録に残っている限りでは津山事件の他にはありません。, 現在でも津山事件の原因については人々の注目を集めており、都井睦雄の残した遺書や、生存者の証言から、事件に至るまでの検証が盛んに行われています。, 都井睦雄が残した遺書の内容も公開されています。都井は遺書の冒頭でまず祖母を殺さざるを得なかった事情と、謝罪の念を書いています。また、その首を切り落とすという殺害方法についても後悔の念を綴っています。, 愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり, さらに、姉への謝罪の言葉に続けて、この様な事をした自分の墓はいらない、病気によって社会に冷淡にされた事が悲しかった事、社会はもっと結核患者への同情を持つべき事、今度は強い体に生まれたい書いています。, 姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう, そして、最後にはこの日に犯行をする理由を以前関係を持ったのに他村へと嫁いだ女性が里帰りしているためと説明、殺したかった人間を逃してしまった事を悔しがる文章を続けています。, 今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺元ゆり子が貝尾に来たから、又西山良子も来たからである、しかし寺元ゆり子は逃がした、又寺元倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、, この遺書を見て印象に残るのは、とても理路整然とした文面であり、整理されて事と自分の想いがわかりやすく説明されているという事です。とても理知的な人物像が見えます。遺書は以下の文で結ばれます。, ここまで見てきた様に、津山事件は綿密に事前準備がされた計画的な犯行でした。都井睦雄はかなり事件の一年前から猟銃免許を取り猟銃や刀などの武器を集め始めています。, 都井が襲った家は、自身が関係を持った女性の家が中心でした。遺書にもそれは書かれており、都井の中の差別を受けての怒りの感情が以前自分に優しくしてくれた女性たちに向かったのだと推測されています。, また、必死に命乞いをして助かった住民もいます。その住民は「決して動かんから助けてくれ」と必死に命乞いし、それを見た都井は「それほどまでに命が惜しいんか。よし、助けてやるけん」と言って見逃しています。, この点からも、都井睦雄は決して理性を失って見境なく暴れまわった訳ではないことが想像できます。綿密に計画を立て犯行時も冷静に行動に移していた事が推測されます。, 都井睦雄が遺書でも名前を出して触れている寺井ゆり子さんへはひときわ大きな恨みの念を持っていた様です。しかし寺井ゆり子さんは生き残り、生存していれば現在100歳を超えています。, 都井睦雄の津山事件に至るまでの人生を見ると、その暗く孤独な人生が浮かび上がってきます。幼くして両親を亡くし、自身も病弱な体を持って生まれ、社会を呪う様になった都井の人生を見ていきます。, 都井は2歳の頃に父親を、3歳に頃には母親を共に肺結核で亡くしています。それからは、祖母が後見人となって、姉と共に育てられています。その後、6歳の頃に津山事件のあった集落に移り住みます。, 都井睦雄の家は、ある程度の資産と所得を持つ比較的裕福な家であり、畑仕事をしながら楽に生活できる家だったそうです。都井は学業でも優秀な成績を残しており、当初は女性からもモテていたそうです。, 都井睦雄は3歳年上の姉に強い執着を持ち、恋心の様なものを抱いていたのではないかと思われる節があります。都井が自宅に残した2通の遺書のうち1通は「姉上様」と書かれ姉に宛てられたものでした。, また、高等小学校に在籍していた頃に都井は初恋をし、一学年下の学生に精密に書かれた肖像画を送り「あなたが好きです」と告白しています。その肖像画は都井の姉にそっくりであったのだそうです。, この件や遺書の内容からは、都井睦雄が姉に対して強い執着心を持っていた事が伺われます。それが大人になった都井の女性に対する強い執着心にも関係する様に感じられます。, 都井の集落では「夜這い」の風習があったとされると既に書きましたが、都井睦雄も集落の多くの女性と関係を持っていたとされています。姉が嫁いでからの都井は寂しさを夜這いで紛らわせていたのかも知れません。.

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